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カラフル加守田

先週のワインオークションにご参加頂いた皆様、誠にありがとうございました。

さあ、いよいよ秋まっただ中!ジュエリー、西洋美術に続き今回は陶芸で“芸術の秋”を感じて頂こうかと思います。
 
「鑑賞陶器」は読んで字のごとく、観て楽しむ陶器のことです。これはもちろん最初から決まっているというより、お持ちの方が決めるべきことですが、作家の多くは徳利、ぐい呑、お茶碗など機能性ある「日用陶器」を制作する一方、作家性・芸術性を全面に打ち出した「鑑賞陶器」を制作しています。
 
 そこでご紹介したいのが、加守田章二(1933-1983)です。
 加守田は大阪府岸和田生まれ。1952年に京都市立美術大学工芸科陶磁器専攻に入学し、富本憲吉(教授)、近藤悠三(助教授)らに学びました。卒業後日立製作所の日立大甕(おおみか)陶苑の技術員、益子の塚本製陶所の研修生を経て、1959年に益子で独立し作陶を始めます。当時オーソドックスな益子焼とは異なっていた意匠だった為、なかなか買い手が付きませんでした。そこへ偶然窯出しを見に来た浜田庄司に称賛され、地元の業者に注目されるようになります。
 1960年、結婚をしたころから次々と出品した公募展に入選をし始め、頭角を現しました。そして1966年に「日本伝統工芸展」に出品した「灰釉鉢」が文化庁の買い上げとなり、(現在は東京国立博物館蔵)翌1967年にその「灰釉鉢」が第十回高村光太郎賞を受賞しました。    
  陶芸家として受賞したのは、加守田が初めての快挙でした。陶芸界のみならず、美術界全体からも支持をされていたことが伺えます。
 1968年から岩手県遠野で試作品の制作を始め、翌1969年(44歳)には遠野で本格的に作陶を開始。私たちがよく目にしている「加守田章二」の作品は、ほとんどこれ以降のものです。遠野へ移ってからの作品は、加守田の思想、芸術性が一気に花開いたとも言えるでしょう。1983年に50歳で亡くなる前年まで作品を発表し続けました。81年には白血病と診断され、入退院を繰り返していた最中ですら作陶していたのです。また加守田は遠野へ移ってから毎年作風を変えていました。売れた後も惜しげもなく新たなものを作っていく。これが加守田が天才・鬼才とたびたび称される所以でしょう。
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 遠野初期の作品です。特にこの頃の作品は、世に出ることが少なく加守田の中でも評価の高い年代です。波状が器全体にまわっている炻器(せっき)から、彩陶(さいとう)という色彩豊かな作品群への転換は圧巻ですね。弊社でもほとんど取り扱ったことがないので、
ぜひ一度は間近で観てみたいものです。

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  そして1976年のこの年は、個展毎に作風を変えています。上記②と③は白黒のハート形で同じ作品群に入れてもいいかもしれませんが、大きく分けて4種類制作されています。初期に比べ、より簡略化されデザイン的になってきています。加守田のデザインは波状や、ドット形、鱗文といった比較的柔らかい柄を炻器という力強い陶磁器に描いているのも特徴的ですが、ハート形まであったとは!驚きです。

加守田線文
  更に翌年からは有機的なデザインから、線文が現れ、さらに翌年は線で全体を覆う作品も登場しました。この青と白、黄色と灰色の縞がとても加守田らしいと感じます。
やはりこの薄青はなかなか他の作家の作品では観ることができません。寒色であるにも関わらず、質感や模様により冷たい印象が和らいでいます。

加守田晩年
 そして晩年です。線文も円を成し、82年でも使用されている緑釉が80年から使われ始めており、器全体に釉薬を掛けています。また新たな作風へ移り変わる様子だっただけに、早世してしまったのは非常に残念です。

 加守田章二の作品が放つ存在感は独特なものがあります。「孤高」という言葉を使いたくなるほど力強く、他の作家とは一線を画しています。
 
 弊社の近代陶芸オークションでも、毎回必ず一点は出品されるような作家です。ぜひ一度ご鑑賞ください。また作品集も多く出ておりますので、作風の変遷を秋の夜長に眺めてみてはいかがでしょうか。


(執筆者:E)

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