鏑木清方と芝居絵―《歌舞伎のはじめ》


こんにちは。
2024年1回目のブログ更新となります。
本年もよろしくお願い申し上げます。

今年は元日から大きな災害や事故が相次ぎました。このたびの能登半島地震で被災された皆様には心よりお見舞いを申し上げます。真冬の寒さの中、非常に厳しい状況が続いていることと思いますが、皆様の安全と被災地の一日も早い復興を心よりお祈り申し上げます。

さて、今週の27日(土)は近代美術/近代美術PartⅡ/Contemporary Artオークションを開催いたします。今回も出品作品の中からおすすめの1点をご紹介いたします。


【 オークション終了につき、画像は削除させていただきました 】

     112  鏑木清方
   《歌舞伎のはじめ》
  141.8×56.8cm(軸装サイズ249.3×78.8cm)
      絹本・彩色
      1938(昭和13)年作
      右下に落款・印
      共箱
      東美鑑定評価機構鑑定委員会鑑定証書付

      掲載文献:
   『美之國 第十四巻 第十二号』(1938年/美之國社)
   『塔影 第十五巻 第一号』(1939年/塔影社)
   『美術街 第六巻 第二号』(1939年/美術街社)
   『阿々土 第二十四号』(1939年/阿々土社)
   『日本美術年鑑』(1940年/美術研究所・岩波書店)№163 
   『鏑木清方画集 資料編』(1998年/ビジョン企画出版社)
      №645
   『市井展の全貌―淡交会、珊々会、尚美展から東京会まで(戦前編)―』
   (2012年/東京美術倶楽部・八木書店)p.33
     展覧会:「七絃会 第九回展」1938年(日本橋三越)

    落札予想価格 ★¥1,000,000~¥1,500,000


鏑木清方は、上村松園とともに「西の松園、東の清方」と称された近代日本画を代表する美人画の名手です。近年は、市井の人々の暮らしの情景をあたたかな眼差しで描いたことでも高く評価されています。
1878
(明治11)年、清方は戯作者・條野採菊の子として、東京の下町に生まれました。挿絵画家を目指し、13歳の時に浮世絵歌川派の流れを汲む水野年方に入門。新聞や雑誌で人気を博す一方、第3回文展(1909年)で初入選するなど、画壇においても頭角を現します。また、この頃浮世絵を独学し、江戸風俗を題材とした美人画や明治の庶民生活に取材した風俗画の制作に専念していきました。
関東大震災の後は、古き良き東京の姿を描き留めようという意識をいっそう強め、1927(昭和2)年に《築地明石町》、1930年には《三遊亭円朝像》(ともに重要文化財)といった名作を次々に発表。戦後は鎌倉に移住して「卓上芸術」の制作にも力を注ぎ、画帖や絵巻物など、細やかな筆遣いや色彩を手元で楽しむことができる作品を数多く手掛けました。

3歳の頃から芝居好きの両親とともに歌舞伎座や新富座に通ったという清方は、生涯にわたって芝居を好み、挿絵画家時代には雑誌『歌舞伎』の挿絵や表紙絵を手掛け、新聞に劇評を書くなど、特に歌舞伎に造詣が深かったといいます。日本画家となった清方が、江戸の風俗や浮世絵の世界を絵画の画題に選び、愛して描き続けたのは、このように幼少期から親しんだ歌舞伎の影響が大きかったのかもしれません。その後は「京鹿子娘道成寺」や「鷺娘」など、歌舞伎の演目を題材とした作品も度々描きました。

1938(昭和13)年作の本作も歌舞伎を題材とした作品の一つです。描かれているのは画題の通り、「歌舞伎のはじめ」、つまり歌舞伎の“祖”とされる出雲の阿国(おくに)と名古屋山三(さんざ)です。阿国は安土桃山時代から江戸初期、出雲大社の巫女と称して諸国を巡り、男装してかぶき踊りを始めたという人物。山三は蒲生氏郷に小姓として仕えた後、阿国歌舞伎の演出家や役者を務めたと伝えられています。本作では《風俗図(彦根屏風)》(国宝)に描かれた若衆の姿を引用し、太刀にもたれた男装の阿国とその傍らに腰を下ろす美男子の山三のファッショナブルな佇まいを、ふくよかで簡潔な輪郭線と精緻な線描を使い分けて洒脱に表しています。なお、本作は下絵となる素描作品が残されており、現在それは鎌倉市鏑木清方記念美術館に収蔵されています。

ぜひ下見会場で実際の作品をご覧ください。
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なお、ご入札は、ご来場のほか、書面入札、オンライン入札、電話入札、ライブビッディングなどの方法でも承っておりますので、お気軽にご参加ください。
皆様のご参加を心よりお待ちしております。


(佐藤)