3月21日に開催される近代美術オークションは、創業20周年を記念し、歴史的な名品が出品されます。
岸田劉生《静物(砂糖壺・リーチの茶碗と湯呑・林檎)》は、劉生の作品の中で優れているだけではなく、近代の日本美術史上においても重要な価値を有する作品です。

幕末・明治開化期の進歩的な文人・岸田吟香(ぎんこう)の子として生まれた劉生は、幼いころから絵の才能を示しました。とくに、対象を克明に再現する模写を好んだと言われ、東京高等師範学校付属中学を三年で退学して、黒田清輝の主宰する研究所に通います。
そこでは印象派風の制作を続けていましたが、20歳頃から、雑誌『白樺』で紹介されていたルノワールやゴッホ、セザンヌ、ゴーギャンらに傾倒していきます。そのわずか二年後には北方ルネサンスのデューラーに感銘を受け、クラシックの美を求め、更に三年後には、クラシックの感化からも脱し、劉生いわく「内なる美」を探究していくこととなるのです。
1916年、劉生は肺結核の宣告を受け(後に誤診であったことが判明)、療養のために駒沢、鵠沼へと転居し、安静を期して室内で静物に取り組むようになりました。それまでは戸外で風景画を主題にしていた劉生は、この頃初めて、静物画の奥に宿る深い神秘感を捉えることを知ったのです。
それを劉生は「内なる美」と呼びました。これを追求した鵠沼時代(1917~1923年)は、劉生にとってもっとも充実した作画期であり、人物像では1918年から《麗子像》、《村娘於松》が次々と描かれました。
今回のオークションに出品される《静物(砂糖壺・リーチの茶碗と湯呑・林檎)》もまた、1919年4月に描かれたものです。
1923年になると、劉生は関東大震災に遭ったことがきっかけとなり京都へと居を移します。ここでは南宋画に傾倒し、東洋の美に心酔していきます。肉筆で描かれた浮世絵に観られるような、一種「でろり」とした質感の濃い赤で日本画を描いたり、自由な文人画風の洒脱な水墨画を描いたりして、画風は大きな変化を見せます。そして、38歳の12月、料亭で銀屏風に即興の画を描き終えた後に倒れ、6日後、突然に世を去りました。

1916年9月に完成させた静物によって、劉生は静物に開眼します。それは青い林檎二つを青い布をバックに配したものでした。
その作品の裏には「二つの運命」と題された次のような詩が書きつけられていました。
「この二つの林檎を見て 君は運命の姿を思はないか 此処に二つのものがあるといふ事 その姿を見つめてゐると 君は神秘を感じないか それは美だ、在るといふ事の美だ。 美は神秘の力だ。」本作品に描かれたリンゴが、前掲の詩における劉生の感銘を受けるものだとすれば、5個のリンゴのまだらな斑紋、茶碗の欠けた様は、海岸に数人の子どもが座っていることの運命を、観る者に呼び起こさせるのです。
本作品の出来は、画家本人としても満足のいくものだったようです。自ら後世に残すべき価値があると思う作品を選んで画集にした『劉生画集及芸術観』(聚英閣)に作品の図版を掲載して、次のように述べています。

その自信を受けて、劉生は静物にこそ画家としての本領が発揮されるとばかりに集中して優れた作品を描くようになっていきました。

劉生はこう考えました。美術とは所詮、この世界の装飾、造化の最高の匠であって、美術家はその選ばれたる使徒である。そしてこの世を美しく見たいのは人類の意志・本能であって、その美に感応する能力は誰の内にも移し植えられている、と。
こうした壮大・深遠な思想は劉生を中心に草土社というグループを結成して中川一政、椿貞雄といった弟子が集い盛んに展覧会を開催する求心力を持ち、稀代の美術コレクター・芝川照吉や原三渓らの支援も得て、速水御舟、中村彝、梅原龍三郎、木村荘八など、同時代・以後の時代の画家たちに絶大な影響を与えて行くこととなりました。
梅原龍三郎が劉生の芸術について語った冒頭の言葉は、本作品の崇高な美に触れた時、観るもの誰しもに共感を与え得ることでしょう。