これまでシンワアートジャーナルでは、明治期、大正期の日本洋画についてお話してきました。第3回目となる今回は、横山大観(1868-1958)、菱田春草(1874-1911)を中心に、明治期の日本画について特集します。


明治9年、日本初の官立美術学校、工部美術学校が開校し、西洋美術教育が行われますが、内部の混乱や明治10年代半ばからの国粋主義の台頭により、明治15年に閉鎖されます。(日本近代美術を考える1を参照)そして明治22年、二番目の官立美術学校として、フェノロサと岡倉天心によって東京美術学校が開校します。ここでは当初、日本画、木彫、工芸(彫金、漆工)のみが教えられていました。

この東京美術学校に、大観は第一期生として、春草は二期生として入学します。二人は新しい絵画の創出を目指す天心や狩野派の橋本雅邦の下で研鑽を積み、やがて母校の教官となります。


ところが、明治31年、日本画の革新を進めようとする天心の姿勢に反発が起き、天心が学校を追放されるという騒動が起こります。これに伴い、大観、春草を含む教官17名が退任、そのメンバーが中心となり、東京・谷中に日本美術院が創立されます。これは明治43年、天心の渡米を機に一時活動を休止しますが、その後再興し、現在も公募展「院展」を主催する美術団体として存続しています。

明治29年、東京美術学校に西洋画科が設置されたこともあり、当時、黒田清輝の空気を巧みに描いた外光表現が当時の青年画家たちを魅了していました。天心はこれに想を得て、大観や春草らに「空気を描く工夫はないか」と設問したといいます。西洋画にある遠近感や量感、光や空気の存在感などをどのように表現したらよいのか、という問題に直面した彼らは、伝統的な日本画において重要視されていた「線描」の排除を試みます。中でも春草は、日本美術院創立の3年前、卒業制作で線描の力強い作品を提出し、首席を得ていました。その評価を捨ててまで、伝統を覆すかのごとく、新しい日本画の創造に向けて果敢に取り組んでいったのです。


こうして大観や春草は西洋絵画の色彩や空間表現を取り入れ、空刷毛で彩色をぼかすことによって、画面全体に漂う空気や柔らかな光を表現することに成功します。当初は「朦朧体(もうろうたい)」と非難され、経済的にも苦しい時期を迎えますが、二人は天心らと共に明治37年よりアメリカ、ヨーロッパに赴いて作品を発表するなど、その開発に努め、欧米で好評を得ます。そして同年帰国後、天心の別荘があった茨城県五浦に移住し、新日本画宣言ともいえる論文「絵画について」を連名で発表。色彩を重視した無線画を主張し、これに基づいた作品を展開していきます。

その後春草は、点描風の表現を取り入れた作品や、写実性と装飾性が調和した作品など、斬新な表現を試み、近代日本画に大きな影響を与えていきます。また、明治40年からはじまる文展(文部省美術展覧会)では第一回展から出品し、後に審査員となりますが、明治44年に37歳という若さで没します。
一方大観は、第一回文展から審査員として参加し、ここを発表の場として活躍しますが、大正3年には文展を離れ、日本美術院の再興に尽力します。そして、東洋の思想と西洋的写実との融合を追求し続け、大正、昭和の激動の時代を「近代日本画」形成のリーダーとして、画壇を牽引していったのです。 

当時は革新性を非難されながらも、独自の画境を切り開いていった大観と春草。今や、近代日本画の巨匠として、高く評価されています。
現代では革新性、独創性といった価値観が根付いていますが、日本画においてこのような評価基準が生まれ、それが主流となっていったのは明治以降です。大観や春草は、それを成し得た最初の世代としても、大きな評価に値するといえるでしょう。


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5月17日(土)開催/近代美術オークションの下見会は下記の日程で開催いたします。
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大阪:大阪営業所
5月9日(金)・10日(土) 10:00〜18:00

東京:シンワアートミュージアム

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月14日(水)〜16日(金) 10:00〜18:00
5月17日(土)  10:00〜13:00

入場は無料です。 どうぞお気軽にお越し下さい。

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