前回1月の記事では、高橋由一を中心に 近代美術の黎明期についてお話しました。
今月は時間軸を一歩進め、自由闊達、且つ、個々の個性が尊ばれた大正期の美術界と、そこに生きた早熟の天才画家村山槐多をご紹介します。

「僕は芸術界の絶対の自由(フライハイト)を求めている。従って、芸術家のPersoenlichkeit〔人格〕に無限の権威を認めようとするのである。あらゆる意味において、芸術家を唯一箇の人間として考えたいのである。」 高村光太郎 『緑色の太陽』
美術界において、保守的なアカデミズムが全盛だった大正前夜の1910年。「智恵子抄」で知られる、彫刻家で詩人の高村光太郎は、「緑色の太陽」というエッセイを発表した。彼はそのなかで「太陽は、芸術家がそのように描きたければ緑に描いてよい」と宣言。それは、「芸術家の人格を尊重せよ、芸術家は自我を解放せよ」という主張となったのである。その力強い宣言は、その後の美術界の潮流を決定付けたといっても過言ではないほどの影響を芸術家たちに与えた。
その後、光太郎の宣言に呼応するように立ちあがったいくつかのグループの活動を経て、1914年に二科会と日本美術院という2つの在野団体が結成・再興された。この2集団は、萌芽も含め様々な新しい傾向を模索する画家たちの重要な受け皿となり、新しい美術潮流を作ろうという流れがいよいよ確かなものとなっていった。
そして、こういった時代の空気こそが、大正期の美術史上に重要な一部分を占める、村山槐多をはじめとする若き天才を生む素地となったのである。

「木炭と、紙と、それだけで沢山だ/(中略)あゝこれさへあれば/これさへあればオレはきつと勝つて見せる/あの怪物なる人間の肉体に/そして吸ひ取つて見せる/血よりも美味なる「美」を/オレの腹の中へ/オレの中へ」 ―村山槐多―
村山槐多は、大正期、奔放な自我の解放が尊ばれた時代を生き、1919年23歳の若さで亡くなった夭逝の天才画家である。10代より詩や戯曲の執筆、油彩画や同人誌の表紙デザインを手掛けた早熟多才のひとであった。
美術史上の槐多の位置づけは、大正時代に流行した生命主義――すなわちニーチェの主張する「生命の全面的な開放」を理想とする思想が作品に充満する、様式的にはフォービスムの流れにある作家、というものであろう。事実、槐多は中学生の時に英語でニーチェを読破し、17歳の時に弁論大会でその思想に言及し「偉大なる人とは自己の所信を断行せる人也」と述べているし、代表作《尿する裸僧》(1915年)の奔放な生命の描写や、男女を問わず向けられた熱烈な愛情のこもった詩文には、槐多の表現主義的な内面が滲む。
また、彼の水彩・油彩・素描問わない非常に多様な作品はどれも、アカデミズムに依らない独自の世界をもつものであり、その傑出した才能は、死後、彼を偶像視させるほどの伝説となった。
そしてその稀有な才能は、今なお人々を魅了し続けている。しかし、画家が生きた時代がもし、大正でなかったならば、果たして、この若き天才は花開いただろうか。彼の芸術世界は、大正という時代の持つ空気があってこそ開花し、伝説となったとはいえまいか。そういった意味において、槐多という存在は、この短い自由の時代の象徴ともいえるのではなかろうか。


3月22日の近代美術オークションには、村山槐多が1916年に制作した「男」が出品される。本作品は、全画集や展覧会の参考図版として紹介されながらも、長年所在が不明であった。紙に木炭で描かれているが、強い線を何重にも重ねるという、一般的には鉛筆素描に用いられる技法を駆使して、強烈な印象を生み出している。この前年10月に槐多は50枚の木炭画を制作することを決意し、「素描の完成」を目標に掲げている。本作品の顔を歪める男は、写実性よりも絵としての完成に力点が置かれているように見える。11月に一家で京都から東京に移り住んでからはめっきり詩作が減っていることからも、この時期の槐多がいかに素描に打ち込んでいったかが窺われる。
大正期の熱い空気を湛えた本作品を、是非下見会でご鑑賞ください。
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