以前のジャーナルでもご紹介しましたが、今年の夏、ドイツのカッセルにて5年に一度開催されるコンテンポラリーアートの大型グループ展、ドクメンタが開催されました。12回目となる今回は、「我々にとって近代は古典か」という問いなど、アートの本質について再考を促すテーマが掲げられていました。私たちが生きる現代を創出してきた近代という時代。温故知新というように、現代を知るには近代へと立ち返ることが不可欠といえます。昨今、コンテンポラリーアートが活況を呈し、空前のアートブームといわれている一方で、原点へと回帰し、近代美術を見つめ直す時が来ているのでしょうか。
  そもそも、一般にいう「近代美術」とは、どのように誕生したのでしょうか。今回のジャーナルでは、1月近代美術オークションに出品される作家、高橋由一を中心に、日本における近代洋画の黎明期を概説します。

  1853年のペリー来航を機に開国へと向かった江戸幕府は、軍事や外交面での必要に迫られ、1856年に西洋の書物を研究する蕃所調所(ばんしょしらべしょ)を創設します。翌年、絵図調方(えずしらべかた)が設置されて洋画の研究が始まり、教授に川上冬崖(かわかみとうがい、1827〜1881)が起用されます。その後、蕃書調所は洋書調所に、絵図調方は画学局と改称されますが、ここで川上冬崖の下に学んだひとりが高橋由一(1828〜1894)です。
  佐野藩の江戸邸内に生まれた由一は、初め狩野派に学びますが、西洋石版画を見て強い衝撃を受け、西洋画家になることを決意します。洋画を学ぼうと画学局に入るものの、画材も教師もなく、横浜に住むイギリス人挿絵画家、ワーグマンに入門し、油彩技術を学びはじめます。そしてわずか一年後の1867年にはパリ万国博覧会に油絵を出品することになります。
  日本が万国博覧会に公式参加したのはこのパリが初めてであり、これを通じて、文化的にも西欧世界へと組み込まれていきます。さらに、1873年のウィーン万国博覧会に参加する際、出品規定の訳語として「美術」という言葉が登場します。これは、「西洋ニテ音楽、画学、像ヲ作ル術、詩学等ヲ美術ト言フ」と定義され、現代でいう芸術に近い言葉として用いられました。
  明治維新後、川上冬崖は画塾を開き、洋画法の普及に功績を残します。一方由一は、民部省や大学南校(洋書調所が開成所、開成学校と改称した後の名称。東京大学の前身の一つ。)の教官など官職を務めますが、1872年それを辞し、翌年には画塾を設置します。また、土佐藩の命でイギリスに渡った国沢新九郎(1847〜1877)が1874年に帰国し、画塾を開設するなど、私塾による絵画教育がなされていきます。
  このような状況の中、1876年に日本初の官立美術学校、工部美術学校が開校し、日本政府による正式な西洋美術教育が行われるようになります。入学者は前述した私塾の出身者がかなりの数を占めていたといいます。ここはあくまで、西洋美術(絵画と彫刻)の教育機関であり、日本画や木彫は行われませんでした。「美術」という言葉が西洋の概念の訳語であるように、それを機構化した教育も、外国人教師による西洋スタイルが採用されたのです。また工部省が設置したということもあり、日本の近代化のための国家有用の美術家、技術家の養成が目的とされました。
  この頃由一は、政府に招かれたイタリア人教師、フォンタネージから洋画技法を学ぶとともに、豆腐や鮭を題材に迫真的な写実描写を試み、徹底したリアリズムを追及していきます。その後日本の伝統を見直そうとする復古運動が起こり、1882年に工部美術学校は閉鎖され、洋画は冬の時代を迎えることになります。しかし由一は、県知事の依頼で東北地方の開拓を記録した風景画(1月近代美術オークションに1点出品)や、元老院の依頼で明治天皇などの著名人を描いた人物像を制作し、洋画技法による風景画、肖像画を確立します。さらに、自らが歩んできた洋画研究の歴史を文書にするなど洋画の普及に尽力し、近代日本洋画の基礎を築いていったのです。

■下見会のお知らせ■
1月26日(土)開催/近代美術オークションの下見会は下記の日程で開催いたします。
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大阪:大阪営業所
1月11日(金)・12日(土) 10:00〜18:00
東京:シンワアートミュージアム
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月23日(水)〜25日(金) 10:00〜18:00
1月26日(土)  10:00〜13:00

入場は無料です。 どうぞお気軽にお越し下さい。

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