「東の劉生、西の楢重」と呼ばれた小出楢重。関西洋画界の重鎮として活躍した作家として知られています。
今回は3月31日(土)開催の近代美術オークションに出品される小出楢重の「ばらの花」をご紹介いたします。

《 小出楢重  / 1887年-1934年
1887(明治20)年、大阪府の薬舗に生まれた小出楢重は中学生の頃から図画を得意とし、東京美術学校へ入学。卒業後は大阪へ戻り、文展入選を試みるが4回連続で落選してしまう。そんな楢重は1919年に友人の勧めもあって二科展に「Nの家族」を出品し、みごと二科展の新人賞である樗牛賞を受賞する。 この作品のモデルは当時すでに結婚していた野田重子と、その間に生まれた長男であり、「Nの家族」は楢重の代表作のひとつとなった。
翌年には「少女お梅の像」で二科賞を受賞し、画壇へのデビューを果たす。この時楢重は既に31歳であったが、その画業はより一層磨きがかかる。

1921(大正10)年に半年間渡仏、帰国後の楢重は制作活動に尽力する。そして23年には大阪市美術協会創立の際、洋画部の幹事となり、その後二科会会員となる。1924(大正13)、鍋井克之らと信濃橋洋画研究所を開く。そして26年には芦屋にアトリエを構える。その洋風でモダンな生活の中から「芦屋時代」と呼ばれる黄金期を迎え、完成度の高い傑作を次々と生み出した。 そして1927(大正16)年、公募制の全関西洋画展を創設。関西洋画界の発展に多大な功績を残し、指導者として若手作家の育成にも貢献する。

しかし、1930(昭和5)年より身体の不調を訴え、1931(昭和6年)に心臓発作をおこし43歳という若さで急逝する。絵画制作のほかにも随筆家としても知られている。

《 作品解説 》

小出楢重が43歳の若さで逝去してから50年近く経った1980年春、妻・重子は、納屋に1冊の古いノートを発見する。灰褐色、布表紙の小さなノートは、「楢」と墨で印された埃だらけの行李の中に、他の遺品とともにしまわれていた。それは、1919年の二科会入選以前から1929年にかけて小出楢重が自身の作品を制作年代順に記した記録帳であったが、一方で、ある頁には子供の落書き、または自身の買い物メモなどがあり、作者が手元近くに置き常日頃から書き留めていたことが伺われる。

1926年の頁を開くと、そこには長方形の四隅を切り落とした八角形の図が2つ、インクで小さく描かれている。それぞれの中央に「バラ」「菊」という文字、そして横には「三十号位 一対」との注釈があることから、「バラ」が本作品を指すと同時に、「菊」という同型の作品と共に、二点一対の作品として制作されていたことが推測される。
1920年代、関東大震災の影響が依然として影を落としていた帝都を尻目に、関西では次々とモダン建築が建設されていった。楢重は友人である建築家・笹川愼一氏の依頼を受け、洋風建築の壁面を飾るための作品を数点制作している。本作品のように対の作品は、飾る場所をあらかじめ想定し描いたもので、楢重自身は「装飾画」と呼んでいたという。

急速に発展を遂げた大正という時代、そしてなによりモダニズムを謳歌する画家の自由な精神が本作品に大輪のばらの花を咲かせた。ガラス絵に似た透明な絵肌と大胆に走る描線が生むドラマティックな陰影の効果は、ほの暗い電灯の下で芳香漂うばらの花を艶やかに浮かび上がらせる。洋式の調度で整えられていたというアトリエの様子が伺える円卓は、変形のキャンバスと呼応し作品全体に均整の取れた安定感をもたらす。本作品からは、壁を飾るための装飾品という役割以上に、西洋文化に挑戦するがごとく洋装に身を包みながら、日本人であるからこそ描ける油絵を貪欲に追い求めた画家の姿が浮かび上がる。

■下見会のお知らせ■
3月31日(土)開催/近代美術オークションの下見会は3月28日(水)より行います。
小出楢重「ばらの花」をはじめ、全出品作品がご覧になれます。(入場無料) どうぞお気軽にお越し下さい。

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配信日:2007年2月 / Copyright 2007 Shinwa Art Auction, Co. Ltd. All rights reserved.