第二回 版画という美術
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第三期では、主に戦後の日本を活躍の舞台とした作家に焦点を当て、現代の美術シーンに迫っていく。これまで当アカデミーでは絵画作品についてのみ取り上げてきたが、今回は、日本が世界に誇る版画芸術について取り上げたい。
<庶民の芸術>
今から凡そ300年前、17世紀の江戸で栄えた浮世絵は、「浮き世」の思想を背景としている。しかし実際の江戸町人の暮らしぶりは厳しく、現実は「憂き世」であった。そのようなはかない命なのであるからせめてそれを謳歌して「浮き世」と考えよう、というのが浮世絵誕生の思想的背景である。
前回までに取り上げた狩野派や大和絵といった、政治と結びついた絵画とは別に、浮世絵版画には庶民の世界観が根を張っている。
<国際的評価>
浮世絵は17世紀江戸の町で、大変な人気を博した。その影響力の大きさは、あまりに人々が熱狂したために政府が画題の取締りを行ったことからも伺われよう。
大きな需要は、技術的な研鑚と、消費者を飽きさせない豊富なバラエティとを要求する。かくして花開いた版画芸術の精華が、写楽の役者絵や、広重の《東海道五十三次》である。ご存知のように、こうした名品は海外で先に高い評価を受け、今も外国のオークションハウスなどで大変な高額で取引されている。
わが国の印刷技術の高さは現在も広く知られるところであり、戦後に制作された版画もまた、国際的な評価をほしいままにしている。
<「創作版画」の登場>
浮世絵は明治末期から大正にかけて減少する。それに代わり登場したのが「創作版画」である。これは、従来は複製品として価値を認められていなかった版画が、芸術としての版画に移行していく契機となるものであった。
創作版画運動を提唱したのは山本鼎、石井柏亭ら、美術雑誌『方寸』に投稿する同人たちであり、画家が自分で描き・彫り・擦りを行うことを特徴としていた。雑誌の挿絵を触媒として、文芸雑誌『仮面』の長谷川潔、版画誌『月映(つくはえ)』の恩地孝四郎らが創作版画家として活躍した。他に岸田劉生、萬鉄五郎らも創作版画に同調していた。
<近代の版画>
さて山本鼎の名前を、教育者としてご存知の方も多いのではないだろうか。創作版画運動が彼によって主唱された結果、この運動は啓蒙的な運動へと展開した。版画はやがて手軽な教材として学校教育に導入されるようになり、文展、春陽会、国画会にも部門が開設され、技法書も多く制作された。
創造性を重要視するようになった傾向を、江戸以来の浮世絵版画に取り入れようとする動きもあった。版画としての芸術性を追求した新しい浮世絵は、伊東深水、橋口五葉、川瀬巴水、山村耕花らによって牽引され、大正の情緒漂う多くの名品を残している。
<絵と版画>
ロシアの農村社会を見て帰った山本鼎の版画教育は日本の山村地帯にまで広く普及した。その結果、やがて日本を代表する版画家となる棟方志功が育ち、大衆版画へのゆり戻しが起こることになるのである。棟方は版画としてはじめて文展の特選を受賞し、ヴェネチア・ビエンナーレでも大賞を受賞した。
日本の版画に次に大きなムーブメントが起きたのは戦後、1960年代である。アメリカを中心としたポップ・アートの影響を受けて、日本でもシルクスクリーンと写真を用いて一点制作の版画を発表する作家が出始めた。浜口陽三は銅版画に色を導入することでメゾチントの技法を改良し、高い評価を受けた。
<日本版画の国際的評価>
版画は古来、日本が世界に誇る芸術であった。江戸時代に花開いた浮世絵の華やかな文化は明治前半でほぼ終息し、大正から昭和にかけてわが国にはオリジナリティーを重視した版画が制作されるようになった。
本来、一個の版から数百枚単位で作品が作られる「版画」は、オリジナリティーとは相反する性質のものである。版画と創造性――そのせめぎ合いの歴史の中で、世界に誇る日本の版画芸術は成長してきたのである。
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