第一回 美術団体が構成す戦後
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第三期では、主に戦後に活躍した作家に焦点を当てて、段階的に現在の美術シーンに迫っていきたい。第一回は、戦後に活動を再開した様々な美術団体の動きについて学ぶ。
<展覧会の変化>
戦争は国家の力や一般市民の暮らしを変化させるだけでなく思想面、経済的な面、物質面などさまざまな点から創造的な活動を妨げることに繋がっている。戦時中の日本では画材が不足し、絵を購入する人々が減ったこともあって全体的に作品数が少なく、また作品には国家的な思想を描くことを余儀なくされたものが多く見受けられる。
多くの制約下にあった戦時中は活動を停止していた美術団体は、ほとんどが終戦後間もなく活動を再開した。文部省展覧会は、「社団法人 日展」としていち早く独立し、民主的な運営による展覧会として今に至っている。
<かつての「新人画家」>
在野団体の戦後復活も、極めて早かった。二科会、春陽会、独立美術協会、新制作派協会、国画会などが相次いで再建され、かつての新人画家・中堅画家と呼ばれた作家達は戦後の団体の中核を担うようになっていた。戦前に美術界を賑わわせた作家達は大御所と呼ばれるようになった。
中でも、戦後、「日展三山」と呼ばれた東山魁夷、杉山寧、高山辰雄の活躍は際立っていた。緻密で丹念に描かれた風景画は多くの人に支持され、大画面がかもしだす崇高な画風が戦後の日展の一方向性として定まっていった。
<創造美術>
こうした日展の日本画や、横山大観らが中心となって奥村土牛らが活躍する院展の動きに対して、これらの日本画に現実感が失われているとの危機感を抱く画家たちも居た。山本丘人、吉岡堅二、上村松篁、秋野不矩らは「創造美術」を結成し、後に洋画の「新制作派協会」と合流して、戦後の有力美術団体に成長していった。
<春陽会>
春陽会は1922年に梅原龍三郎、山本鼎、岸田劉生、中川一政らが発足させた洋画団体である。上述の院展がアカデミズムだとするならば、春陽会は最先端のアヴァンギャルドを指向するのでもなく、中間的な、穏健な立場を取っていた。春陽会には版画部、彫刻部もある。
明治の終わりに文部省展覧会から派生した美術団体は、それぞれに前衛と保守、西洋と東洋、抽象と具体、審査付きと無審査といった対立する性格を標榜して結成されてきた。
中でも1949年から1963年まで行われた「読売アンデパンダン」は、審査を一切行わないことを明言した画期的な展覧会であった。文展が発足当初から審査員問題で紛糾したように、戦後も、美術団体の興隆のたびに審査の問題は起こっている。文化勲章の配分や(「コラム」参照)、審査の公開などは、戦後美術を支える制度が民主化したことを反映しているとも言われている。
<戦前と戦後の間>
戦前から戦後に至る時代、国家が次第に疲弊していく中で、画材の欠乏や美術家の疎開などによって、美術の活動は衰退を余儀なくされた。しかし、一方では戦争美術という絵画が制作されている。市場ではほとんど目に触れることのないこの画題であるが、今後、多くの研究が望まれる分野でもある。というのも、従軍画家として戦争美術で活躍した画家は、国家に選ばれた非常に優れた技術を持つ画家であるからである。代表的な作家としては宮本三郎や藤田嗣治、そして小磯良平が挙げられよう。
第二次世界大戦の終結は、復興を志す人々にとってのスタート地点でもあった。それは日本の美術界にとっても同様である。日本においては、終戦と共に、戦前にあった美術団体や作家の活動が大きく見直され、新しい美術史が始まったと言える。
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