上村松園 《春》

 

竹内栖鳳 《柳堤雪後》
第三回 日本画に見る京都
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  第二期では、近代の日本画家がたどった様々な系譜を学んできた。
最終回の今回は、京都画壇の作家を取上げ、その作風が出来上がるまでの歴史を辿る。

<千年の都 京都>
 千年の都・京都における画壇の歴史は古い。京都画壇の歴史を語る行為は、ともすれば日本美術や日本文化、果ては正倉院を経て東洋美術の源流を辿る、果てしない物語を綴ることにも繋がる。
  しかし「京都画壇」や「京派」という言葉は、一般的には、近代の京都で学んだり活躍したりした作家のことを指して使うことが多い。この言葉から、竹内栖鳳、土田麦僊、上村松園らの作品を思い浮かべる方も多いのではないだろうか。
  京都画壇の作家は、東京で活躍した横山大観や鏑木清方らの作風とは異なり、独得の情趣豊かな画風で人気を博している。では、東京と異なる京都の画風とは、どのように形成されてきたのだろうか。それを知るためには、美術史を少し遡ってみる必要がある。

<京都画壇の源流>
 1603年、徳川家康は江戸に幕府を開き、天下の中心を東へ移した。
  家康は朝廷の権力下にあった大和絵系の絵師を置いて、当時盛んに新しい絵画を制作していた狩野派の絵師を江戸に連れて帰った。
  江戸時代に入ってから文化ごと西から引越してきた江戸とは異なり、京都には平安時代から培ってきた貴族の美術が存在する。家康は、狩野家を幕府の奥絵師として抱えることで、美術を利用した徳川の権威化を図ったのである。

 それに対し、江戸時代の京都画壇では、円山応挙に始まる円山派が強い影響力を持っていた。応挙は実際の物を見て写生をすることを第一に考え、「気韻生動」(きいんせいどう)を重んじた。そこで学んだ呉春は、応挙の親しみやすいリアリズムに加えて対角線や余白を追求し、やがて京都の四条通りに一門を構える。これを四条派と呼ぶ。京都では四条派・円山派で修行した画家が、やがて近代の京都画壇を形成していくことになる。
  江戸時代に流行した浮世絵の絵師達の多くは、若いころ狩野派で修行を積んでいた。浮世絵が近代の美人画まで繋がっていくことを考えると(第二期第一回「美人画から出発した画家たち」参照)、東京の画壇は江戸狩野派まで、そして京都の画壇は四条円山派まで源流を辿ることができるであろう。

村上崋岳 《菩薩之図》
昭和3年作


富岡鉄斎 《泉聲出山》

<京都府画学校>
 近代の京都画壇は、円山・四条派の伝統の上に、京都府画学校(現在の京都市立芸術大学)出身者たちによる日本画改革が積重ねられて構成されている。古都の伝統を誇るこの美術学校では、当初、「東西南北四宗」という4つの専攻が作られた。
  ・ 東宗(大和絵、四条丸山派)
  ・ 西宗(西洋画)
  ・ 南宗(文人画)
  ・ 北宗(狩野派、雪舟派)
  これはそのまま当時の京都画壇の4大勢力を表している。学校の設立を発案したのは、関西文人画の田野村竹田、大和絵の幸野楳嶺であった。

<「西の栖鳳、東の大観」>
 日本画の近代化は、岡倉天心の指導を受けた横山大観ら日本美術院の画家たちと(第一期第一回「文展、院展の歴史」参照)、京都画壇の竹内栖鳳を中心とした画家たちを両輪にして進められたと言っても過言ではない。その状態は大正末期頃から、「西の栖鳳、東の大観」と並び称されるようになったほどである。
  こうした画壇の二極化に伴い、京都府画学校の南画専攻は次第に冷遇されるようになった。田野村竹田らは日本南画協会として独立し、同行した富岡鉄斎は、絵画と同じように学問や徳を重要視したので、「最後の文人画家」とも言われている。

<関西の画系>
 
京都町奉行の子である幸野楳嶺に師事した竹内栖鳳は、美術教育にも熱心な画家であった。彼の元からは、土田麦僊、小野竹喬、上村松園、徳岡神泉、榊原紫峰、村上華岳といった近代日本画の中心となる多くの画家が巣立った。
  彼らは大正に入ると国画創作協会を立ち上げ、日本画の世界に更なる新風を吹き込んだ。また、戦後の京都からは松園の長男・上村松篁や秋野不矩らの「創造美術」がさかんに新しい日本画を制作している。
なお国画創作協会には甲斐荘楠音(かいのしょうただおと)や岡本神草も在籍し、大正デカダンスの濃厚な作品を発表した。北野恒富も大阪の画家であり、頽廃美を特徴とする作品もまた関西の傾向の一つであった。

<美術史の言葉>
 日本画という言葉は、日本人が西洋画を知るようになった、明治の初めに造られた単語である。美術史の用語は、常に異質な文化との対比によって新しく生み出されてきた。
  たとえば大和絵、唐絵、南画、宋元画などという用語は、中国大陸に勃興した国々の文化を反映しているし、「京都画壇」という用語は、文化経済の中心が京都から江戸・東京に移った後に、特に使われるようになった言葉である。
  それはおそらく現在の美術に関しても言えることである。新しい美術作品が制作されるたびに、既存の作品は古くなってしまう訳ではない。新しい美術が生み出されてぶつかり合ってこそ、二つの作品は初めて相対的に評価され、美術史の中に名を残していくのである。