| <京都府画学校>
近代の京都画壇は、円山・四条派の伝統の上に、京都府画学校(現在の京都市立芸術大学)出身者たちによる日本画改革が積重ねられて構成されている。古都の伝統を誇るこの美術学校では、当初、「東西南北四宗」という4つの専攻が作られた。
・ 東宗(大和絵、四条丸山派)
・ 西宗(西洋画)
・ 南宗(文人画)
・ 北宗(狩野派、雪舟派)
これはそのまま当時の京都画壇の4大勢力を表している。学校の設立を発案したのは、関西文人画の田野村竹田、大和絵の幸野楳嶺であった。
<「西の栖鳳、東の大観」>
日本画の近代化は、岡倉天心の指導を受けた横山大観ら日本美術院の画家たちと(第一期第一回「文展、院展の歴史」参照)、京都画壇の竹内栖鳳を中心とした画家たちを両輪にして進められたと言っても過言ではない。その状態は大正末期頃から、「西の栖鳳、東の大観」と並び称されるようになったほどである。
こうした画壇の二極化に伴い、京都府画学校の南画専攻は次第に冷遇されるようになった。田野村竹田らは日本南画協会として独立し、同行した富岡鉄斎は、絵画と同じように学問や徳を重要視したので、「最後の文人画家」とも言われている。
<関西の画系>
京都町奉行の子である幸野楳嶺に師事した竹内栖鳳は、美術教育にも熱心な画家であった。彼の元からは、土田麦僊、小野竹喬、上村松園、徳岡神泉、榊原紫峰、村上華岳といった近代日本画の中心となる多くの画家が巣立った。
彼らは大正に入ると国画創作協会を立ち上げ、日本画の世界に更なる新風を吹き込んだ。また、戦後の京都からは松園の長男・上村松篁や秋野不矩らの「創造美術」がさかんに新しい日本画を制作している。
なお国画創作協会には甲斐荘楠音(かいのしょうただおと)や岡本神草も在籍し、大正デカダンスの濃厚な作品を発表した。北野恒富も大阪の画家であり、頽廃美を特徴とする作品もまた関西の傾向の一つであった。
<美術史の言葉>
日本画という言葉は、日本人が西洋画を知るようになった、明治の初めに造られた単語である。美術史の用語は、常に異質な文化との対比によって新しく生み出されてきた。
たとえば大和絵、唐絵、南画、宋元画などという用語は、中国大陸に勃興した国々の文化を反映しているし、「京都画壇」という用語は、文化経済の中心が京都から江戸・東京に移った後に、特に使われるようになった言葉である。
それはおそらく現在の美術に関しても言えることである。新しい美術作品が制作されるたびに、既存の作品は古くなってしまう訳ではない。新しい美術が生み出されてぶつかり合ってこそ、二つの作品は初めて相対的に評価され、美術史の中に名を残していくのである。
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