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藤島武二
《太陽のある 湖畔》
1931年
黒田に師事した
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第三回 近代美術におけるサロン
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今回は第一期のまとめとして、近代美術におけるサロンについて取上げる。
日本美術の長い歴史を振り返るとき、忘れてはならないのが、外国からもたらされる新たな技術を巧みに取り入れた天才達の姿である。近代の日本美術は、西洋美術を吸収した画家たちの努力によって築かれてきたと言っても過言ではない。
<留学する画家たち>
西洋画を学ぶべくヨーロッパ留学を果した最初の世代は、山本芳翠や五姓田義松である。彼らはフランスに留学し、印象派が花開く前夜のパリに学んだ。芳翠はそこで伝統的な油彩の技術を習得し、少し遅れて法律を学びに来ていた黒田清輝と出会う。芳翠は、「黒田が帰ったら日本の洋画は変わる」と絶賛したという。
その通り、黒田清輝は日本の洋画に革命をもたらした。芳翠らが日本に導入したアカデミックで重い色調の油絵に対し(脂派・やには)、黒田は、印象派風の明るい色彩で対象を生き生きと描き(外光派・がいこうは)、日本の洋画を刷新した。
黒田はそれを支持する仲間と共に白馬会を結成し、藤島武二、青木繁らの卓越した画家を育てるなど、若手作家の養成にも熱心であった。東京美術学校が出来てからは西洋画科で教鞭を取るが、そこで教官となった画家の多くもまた、パリで学び、帰朝した画家たちである。 |
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佐伯祐三 《ガード風景》
パリで学び日本的フォービスムを追求した
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<「芸術の都」パリ>
芳翠らが留学した当時、パリの美術界は、フランス国立美術学校を中心としたアカデミックな画風が絶対的な優位を誇っていた。サロンと呼ばれる官立の展覧会では、アカデミー会員や美術学校の教授が審査を行う。数世紀に渡って絶対王政を敷いていたフランスでは、宮廷のサロンやそこに付属するアカデミーの制度が、美術界に深く根を張っていたからである。かくしてサロンには伝統的な技法を用いた宗教画か歴史画ばかりが入選し、前衛的な作品は排除された。
パリは「芸術の都」と呼ばれ、美術はパリを中心としてきたという印象が強い。それは、19世紀末から20世紀前半にかけてのフランスにおけるアカデミー対在野の対立の激しさが、前衛美術の求心力となっていたからなのである。そして、そこに留学した日本人作家達は、同様の構図を日本の美術界に輸入することになる。
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<日本のサロン>
日本におけるサロンとは、言うまでも無く文部省展覧会(文展)である(2002年10月号参照)。フランスのサロンを模して発足した文展からは二科展、院展が分かれ、更にその先に数多くのグループが結成された(2002年11月号参照)。これらはフランスに留学してサロンやアカデミーに学んだ画家達の影響なくしては語れないものであり、近代の日本美術を知るうえで大きな要素となっている。
他方で、海外に範を求めて旅立った多くの洋画家が日本に帰朝してくる中、日本画家にもその影響は及んでいる。結城素明や平福百穂らは日本画に洋風の自然主義的写実を取り入れようと无声会を結成しているし、京都の四条円山派と東京の狩野派を融合させたと言われる川合玉堂ですら、西洋の写実的な描法に影響を受けたと語っているのである。
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竹内栖鳳 《卿雲光華圖》
玉堂と同門の四条円山派 |
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<反サロンの動き>
エドゥアール・マネはサロンに落選したことをきっかけに始めた活動(落選展)で、後に印象派と呼ばれるようになる新進作家達のリーダーとなった。この印象派が提唱した色彩分割法が、キュビスムやフォービスム、現代美術へと発展していったことは言うまでも無い。印象派は反官展の集まり「アンデパンダン」を起し、このような活動は「読売アンデパンダン展」などが名称を引用するなど、戦後の日本美術界にも余波となって残っている。
また1903年には官立のサロンとは別に、前衛的な展覧会サロン・ドートンヌが開催されるようになる。エコール・ド・パリ華やかなりし1920年代のパリには佐伯祐三を始め200人以上の日本人画家が学んでいたと言われているが、そこで成功を収めたのが藤田嗣治、レオナール・フジタである。多くの日本人が西洋画を吸収することを目指していたのに対し、フジタは陶器を思わせるエキゾチックな裸体画でサロン・ドートンヌの人気作家となった。
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<日本画・西洋画の意識>
そもそも「日本美術」「西洋美術」という言葉は、いつ生まれたのだろうか。それは、西洋の美術を知り、西洋の視点から見た日本の美術を意識するようになった明治初期に、初めて登場した言葉である。江戸時代以前にも我が国は唐絵(からえ。平安時代に中国様式で描かれた絵画)に対して大和絵、漢画(鎌倉時代以降に描かれた中国の水墨画)に対して和画などという言葉を作り、使用してきたが、明治期に入り西洋画を知ってからはそれに対して日本の技術で制作された絵を日本画と称するようになった。
画家たちにとって、その時代に新しく登場した技術や流派と、すでに身に付けた技術との調和は、いつの時代も大きな課題なのである。
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