第二回 日展、二科展とは
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今回は文部省展覧会から展開した、日展と二科展について取上げる。

<文展 洋画部門>
 文部省展覧会の日本画部門から日本芸術院が分離していった大正三年(1914)、洋画部門から二科会が独立した。

 当時、文展の日本画部では一科(旧派)と二科(新派)に分けた審査が行われていた(2002年10月号「文展の歴史」参照)。一方、洋画では黒田清輝率いる白馬会と、小山正太郎・浅井忠の弟子が中心となる太平洋画会が君臨し、いわゆる「文展アカデミズム」を形成していた。

 そのような状況をにらみ、洋画部門にも二科を設置しようという運動が起こる。有島生馬、山下新太郎、石井柏亭らの青年洋画家達は、大正三年十月、銀座高砂屋に集結した。後に高砂屋の会合と呼ばれるこの集まりで、文展から独立して前衛的な洋画を発表する二科会が決起されるのである。

<方針の差異>
独立した二科会は、文展との違いを鮮明にすることを基本姿勢とした。

 第一回二科展の鑑査員は、小杉未醒、石井柏亭、有島生馬、梅原龍三郎、坂本繁二郎など12名。入選者の作風は鑑査員の影響を伺わせるものが多く、後期印象派のゴッホやセザンヌ風の激しい作風が多い。柏亭は、「文展の肩肘張った作風より素人っぽくとも芸術味があるものを選んだ」と語っている。

 最高額を付けたのは坂本繁二郎《早春》の800円で、最優秀作に贈られる二科賞は、いかにも後期印象派風の、原色で強いコントラストを示した十亀広太郎に贈られるなど、文展との違いを際立たせた。

 二科会の在野精神をはっきり示したものとして、重要な会則がある。

 「本展には何人といえども随意出品することを得、但し同時に文部省美術展覧会に出品せんとするものに限り之を拒絶す」(二科美術展覧会規則摘要)

 この、反官展主義の旗印とも言える会則は、フランスの官展から独立した前衛美術の団体であるサロン・ドートンヌに倣ったもので、二科会の幹部にパリ帰りの者が多かったことが作用している(Salon d'automne は、秋の展覧会という意味。マティス、ブラック、デュフィらが出品した)。フランスのサロン(官展)をモデルに始められた文部省展覧会から、反官展のサロン・ドートンヌに学んだ画家達が、二科会を立ち上げることになったわけである。この会則は、戦後まで変更されることは無かった。




<二科展の傾向>
 二科展の作品傾向は、三つある。

 第一は安井曾太郎らが中心となるセザンヌ風であり、対称を大きな塊として捉え、立体感を強調した。印象派が短い筆触で色調分割をしたのに対し、後期印象派の画風を意識している。岸田劉生が率いる草土社系も、一派を成した。デューラー風の克明な写実と暗い色調、電柱の入れた風景を特徴とした。これはやがて春陽会に吸収されていく。そして東郷青児や神原泰のモダニズムがある。初期の二科ではフォービズムやキュビズムを導入した日本人に加えて、ロシア人作家ブルリュークなどが未来派を育てていた。このモダニズムからは「アクション」「三科」といった先鋭団体が生まれた。この三つの傾向の他に、二科展は渡欧作家が帰国した後の作品発表の場としても機能していた。

 この三傾向はその後も大まかな形で継続され、やがて後期印象派風は長老格と目されるようになる。写実画風は安井曾太郎から宮本三郎へと引き継がれ、モダニズムは東郷青児、古賀春江、向井潤吉へと引き継がれた。会場の第九室には次第にモダニズム傾向の作品が集められる習慣となっていき、ここからは東郷の他に抽象の山口長男、吉原次良らが加わって「九室会」が発足した。


<日展の再出発>
 昭和21年(1946)、終戦の翌年、文展は日本美術展籃会(日展)として再スタートする。戦後の文化復興を志し、一水会、国画会、院展などの作家が一同に出品したため、当然の流れとして洋画壇の最大勢力である二科会にも出品要請が舞い込む。

 戦後の二科会の出発を率いていたのは東郷青児であった。東郷は二科展にも官展にも同時に出品できるように、二科会の会則を改め、これが二科会の分裂を招き、宮本三郎らは二紀会を結成して二科を去った。こうして、戦後の二科会において東郷体制が築かれてゆく。昭和30年、東郷体制下の二科会から一陽会が分離する。このときの二科の運営委員には岡本太郎、山口長男、吉原治良らがいた。

 戦後の二科会は東郷の方針で、一流一派にこだわらず戦後の暗い社会に明るい気分をもたらそうと、大作が多い。作風は、写実もヌードも芸術派も全て含んだ多様性を特色としている。

 

<団体独立の意味>
 作家の有島武郎(有島生馬の兄)は二科会出現の意義についてこう述べている。

 「絵画の世界に二科会の出現した事は種々な意味で重要視されなければならない事だが、私の考えでは、この会が設立された為に、絵画がいわゆる玄人の手から解放されて、素人の手にも取り扱われるやうになった。その現象に重大な功績があると思ふ。」

 このように広く門戸を開放した二科会は様々な美術団体を育む母体でもあった。フォーヴの作家らが独立美術協会として独立した他、より先鋭な作風を描く若手作家らが「三科」を設立、また帝展や春陽会などと袂を分かっていた状況を打開しようと、横の繋がりを謳う中央美術協会や円鳥会が発足した。二紀会は、戦後の二科を再建する際に、前述の反官展主義の条文見直しをめぐって分裂した、二科会の分派である。

 また文展が帝展、すなわち帝国美術展覧会となって組織が刷新されると、こちらに石井柏亭、安井曾太郎、有島生馬、山下新太郎が新会員として迎えられた。これは二科会の在野精神に反する行為として物議をかもし、長老4名は脱退する。そして結成されたのが一水会である。

 しかし一方では、このような独立によって減った会員を補うことで、二科会自体が刷新されていった側面もある。藤田嗣治、国吉康雄は独立美術協会の離脱によって減った会員が補填される時期に、二科会に入会した作家である。

 文部省展覧会に端を発した近代の日本の美術界は、文展・日展と、日本美術院、二科会という大きな独立団体、更にそこから枝分かれした団体との対立構造を軸として展開してきた。このような独特の美術史を持つが故に、日本では、国内で出品される作品の展覧会情報が重要視されるようになっていったのである。