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洋画部門を審査した
黒田清輝 《海》 |
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第一回文展出品者、
上村松園《美人書見》
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第一回 文展、院展の歴史
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今回は日本近代絵画史の根幹を成す、文展を取上げる。
文展とは文部省展覧会の略で、1907(明治40年)年に発足した。現在、毎年秋に東京都美術館を会場に開催されている日展の、原型である。時に日展が「官展系」などと言われるのは、初期の主催者が文部省や帝国美術院などの、国家機関であったことに由来している。1914年から続く二科展も、元は文展から出発した。
<文展の始まり>
文展は初め、フランスのサロンをモデルとしていた。文部省主催の展覧会という案は、時の文部官僚正木直彦が、オーストリアで牧野伸顕(政治家。大久保利通の次男。岡倉天心と東大の同期で懇意だった。)と会い、牧野が「フランスのサロンの如きものを文部省が主催すべきである」と正木に述べたことに始まる。当初は美術という文化振興政策として官主導で企図された、民間に普及させることを目的としたものであった。
第一回は日本画(99点)、西洋画(66点)、彫刻(15点)という3部門に分けられ、一ヶ月に43,741名もの人が訪れた。今日のようにメディアが発達していなかった当時としては相当に多い数であり(参考:現在、東京国立博物館の一ヶ月あたりの平均入場者数は9万人程度。)、文展が一般市民が美術品に触れる貴重な機会であったことが伺われる。
出品者は、日本画では菱田春草、上村松園、安田靫彦、横山大観らで、審査員は岡倉天心、川端玉章、橋本雅邦、下村観山。西洋画は和田三造、黒田清輝、石井柏亭、五姓田義松、坂本繁二郎らが出品し、審査員は黒田清輝、浅井忠、久米桂一郎、小山正太郎らが名を連ねた。なおここには作家・医学博士の森鴎外も含まれている。彫刻の部は平櫛田中らが出品し、高村光雲が審査に当たった。
<審査問題>
文展の開催にはこれまでばらばらに活動していた様々な画派が、一堂に会して審査されるという、日本の美術史上に革命的な試みが行われたという意義があった。しかしそれだけに、当初から日本画部門では、審査の方法について紛糾した。
まず第一回では、朦朧体と呼ばれる筆致を特徴としていた東京美術学校出身の作家(横山大観、菱田春草、下村観山ら)が審査員の中心を占めた。それに対して、旧派と呼ばれる伝統保持の作家達は文展へのボイコットを表明し、対する新派の作家たちが岡倉天心の下に集い、対決姿勢を強めた。
第二回にはその形成が逆転し、裸体画論争(女性の裸体を表現した新派の絵が出品されたことに対し、旧派が酷評し、ヌードは芸術か猥褻かという議論が巻き起こった)などともあいまって、混乱は深まる一方であった。
また、審査委員について画家達がこだわったのも、必ずしも美術的な傾向だけが原因でもなかったようである。文展で評価された作家の作品は、市場価格が跳ね上がるという事実があった。出品作家のうち、審査委員に選ばれてから作品の値段が10倍に高騰した例などもあり、文展の市場価値は高まる一方であった。鏑木清方は文展で評価されたことをきっかけとして挿絵画家から肉筆画家へと転身したと言われている。
<二科制>
そのため第六回の文展から、日本画部門は二つに分けて審査されることになった。これが二科制の始まりである。こうした動きをみた西洋画部門の新進作家たちは、同様の二科を西洋画部門にも設けるよう申請したが、受け入れられず、そこを脱して二科会を結成するに至った。これが現在、上野の森美術館で毎年開催される二科展の始まりである。その代表的な作家に梅原龍三郎がいる。
<日本美術院>
さて、岡倉天心は1898年、東京美術学校での騒動が原因で辞職を余儀なくされた。それに納得しない同校の職員三十四名は辞職を表明し、実際に下村観山、横山大観、菱田春草らは大学を去り、五浦に日本美術院を結成する。これらの作家は文展の中で五浦派、あるいは新派と呼ばれた。新派は第八回の文展では審査委員から除名されるが、日本美術協会という保守の牙城に対して、対抗姿勢を貫いた。これらは主に東京の画家たちであるが、京都では村上華岳、土田麦遷らが国画創作協会を立ち上げ、新たな京都画壇を形成した。
こうした各派への分裂と日本美術院の離脱という混乱状況を解決するため、文部省主催の文展は12回で終了し、1919年、帝国美術院主催の帝展もとに再編成された。
このように、第12回までの文展は審査問題をめぐって派閥争いが繰り広げられたが、それは様々な流派を一堂に会して、美術を一つの基準で評価することの難しさを如実に示している。さらに、分かれていった画派を形成する作家たちの、現在の評価の高さから伺われるように、文展は近代の日本画の歴史を作った画家達に新しい芸術を創造させる礎となったという意義もあった。
現にこうした関係はフランスの近代におけるサロンと、そこから離脱して20世紀芸術の始祖となった印象派の関係を思わせる。冒頭に述べたように、当初から日本における「フランスのサロン」を目指した文展が、やがて20世紀の日本画壇を成していくのも、当然の潮流と言えるであろう。
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